HIGH STYLE TAKANAWA ハイスタイル高輪

未来を俯瞰し、いまを語る。緑多き都心の楽園・高輪
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マーケティング・プランナー清野裕司が考察する高輪の今と未来予想図

超日常の街に新しい文明開化の兆しが
文明開化の夜明けと共に高級住宅地へ
高輪は高台と坂の街であり、その昔は海が見えたといいます。現在の第一京浜は江戸時代の東海道で、その名の通り、海沿いを走る街道でした。今でこそ港南口エリアが埋め立てられたことによって海は見えませんが、江戸時代の地図や図画を見るとその様子がよく分かります。
明治時代になると、日本でも鉄道建設の計画が持ち上がります。ところが、いつの時代も新しいことを始めようとすれば必ず反対する人がいるもので、当初の計画では東海道沿いに鉄道を敷設する予定だったものの、反対派の強硬姿勢によってそれが適わず、海の中に築堤を築いて通すことになったようです。
こうして日本初の鉄道が明治5年9月に新橋と横浜の間で開通。ここから都市交通の本格的な整備が始まるわけですが、実は、同じ年の5月に、品川から横浜との間で鉄道の試験開通が行われています。これによって品川界隈は、宿場制度が廃止され西へと通じる陸海両路の「江戸の玄関口」は、文明開化を後押しする鉄道交通の要所へと変貌します。
そうしたことから、名だたる財閥たちが、泉岳寺をはじめとした由緒ある寺社が数多く点在した高輪に相次いで居を構えることとなり、高輪は「お大尽が住む高級住宅地」というイメージが定着していきました。
ほとんどの人が知らない『超日常の街』
さて、現在の高輪はどうか。残念ながら「お大尽が住む高級住宅地」というイメージはありません。仮に東京に住む10人に「高輪と聞いて何を連想しますか?」と聞いても、8、9人は少し迷って「高輪プリンスホテル…?」と答えるでしょうし、「最寄り駅はどこか知っていますか?」と聞いても、たいていの人は「品川…、かな?」と答えるに違いありません。つまり、ほとんどの人がおぼろげながらに「高輪=品川」と考えているのです。もちろん悪いイメージが思い浮かぶ要素はないのです。ただ、それくらい今の高輪には「これ!」といった明確なイメージがありません。
高輪のハイソなイメージが具現化されていたのは昭和30年代までのことで、高度経済成長期に入ると、財閥や旧軍部高官のお屋敷は売りに出され、日本のリーディング・パーソンや飛びっきりのお金持ちは姿を消します。以後高輪には、昔ながらの住民(商店会を構成していた少数の人々)と、昭和40年代以降、それまでの高輪ブランドに憧れて入ってきたマンション住まいのプチ・セレブの新住民が共存し、少し古めかしくはあるものの、ある「品格」は残しつつも、「超日常の街」といったイメージが色濃くなります。

市場規模の小ささが高輪のアキレス腱
なぜ高輪は「超日常の街」になってしまったのか。それは「市場規模の小ささ」が最も大きな要因と考えられます。かつてのお金持ちはそれで良かったのです。わざわざ混み合った市場に出向いて行かずとも、定期的にあらゆる御用聞きがやってくる。今も昔も、お金持ちの生活には市場の大小やその有無は関係ないのです。結果、経済活動のフィールドとなる市場が発展せずとも「そこで暮らす人々(お金持ち)は十分にやっていけた」という背景があります。
ところが、私たち庶民の暮らしはそういうわけにはいきません。高輪には、小さな商店会(現在はその規模も縮小傾向にあります)はあるものの、ちょっと洒落た買い物をするにしても、ちょっと美味しいものを食べるにしても、その「ちょっと」さえ満たしてくれる店がほんのごくわずかしかありません。したがって、それらの消費活動を行うためには、わざわざ余所の街へ足を延ばさなくてはなりません。つまり「ちょっとした目的」は別の場所で済ませて、あとは家に帰って寝るだけ。都心のど真ん中にあるにも関わらず、案外不便な「日常」が存在している街、それが高輪の現状です。

港区高輪という「移動便宜性」のメリット
それは「高級住宅地」と呼ばれる街に共通して見られる傾向でもあります。例えば、田園調布や成城学園などはその良い例でしょう。どちらの街も近年になって駅ビルが新設されはしましたが、利便性を享受する決定打にはなり得ておらず、街自体はここ20、30年何も変化のない古めかしさです。
にもかかわらず、かねてよりそこで生活を営む人々の社会的なステイタスの高さによって高級住宅地としてのポジションが保たれている。まさしく高輪にも近しいことが言えるでしょう。
しかし、それら2つの高級住宅地と高輪を比較した時、明らかな違いがあります。それは交通機関の利便性です。仮に、日本橋や銀座に出るにしても高輪は自転車があれば楽々アクセスできる距離にあります。また、電車で東京駅までアクセスする場合、田園調布であれば、東急東横線で中目黒まで出て日比谷線に乗り換えて霞が関まで行き、丸の内線で東京までが最短ルートでおよそ34分。成城学園なら、小田急線で新宿まで出て中央線で東京まで行くのが最短で約35分。通勤帯ならどちらもかなりの混雑を覚悟しなくてはなりません。一方、高輪の場合は、泉岳寺から浅草線で新橋まで出て、山手線ないしは京浜東北線で2駅目。時間にしておよそ15分の距離となります。居住地をマーケティングする上で重要な「移動便宜性」を考えるならばこれは極めて大きなメリットです。この点については次回で詳しく述べたいと思います。

東京オリンピックとともに変わる高輪
今回、改めて高輪という街をマーケティングの視点で見直して浮き彫りになったのは「都会にあるべき猥雑性に欠けている」ということです。「猥雑性」という言葉は先にも触れた「市場の活性化」という言葉に置き換えても構いません。
そもそも、マーケティングという言葉を分解すれば「market」という言葉と、現在分詞の「ing」が組み合わさって構成されていることが分かります。つまり「market=市場」の中で、いかにお金や情報の交換が行われているかを指標として、その実態を分析するかが私たちの仕事です。そのように考えると、現在の高輪は、栄華の歴史と息吹は所々に感じるものの、人々がお金や情報を交換する市場があまりにも小さく「分析のしようがない」と言うのが私の考えです。もっと率直に言うなら、今のままでは高輪の未来予想図は描けないということになります。
しかしながら、そんな高輪の印象をある意味で根底から覆すべきプロジェクトが今進んでいます。それが2020年の東京オリンピック開幕と同時に完成が予定されている、JR山手線品川駅~田町駅間の新駅とその周辺エリアの再開発です。その規模からしてこれは、おそらく東京都内で最後にして最大の再開発になることと思われます。当然ながらそこには、かなりの規模の猥雑性と独自性が生まれるはずです。高輪はその開発エリアから歩いてわずかの距離。第一京浜を1本挟んだ真向かいに位置します。次回は、新駅とその再開発エリアが高輪に及ぼす影響について、マーケティングの視点から分析してみたいと思います。
文:清野 裕司(せいの ゆうじ)
1970年、慶應義塾大学商学部 卒業 マーケティング専攻。㈱キョーリン入社(マーケティング室)。
1973年、三井物産㈱食品部食糧統括室入社(外食産業のマーケティングを担当)。
1976年、十和㈱[現㈱アスティ]入社(マーケティング部・販売促進部)。
1981年、株式会社 マップス創設。
●マーケティング戦略プランニング:2,500種類のプロジェクト実績
●ワークショップ:長期経営戦略/新製品開発/営業体制設計/社員活性化
●ブランド開発コンサルティング
●地域産業創出/商店街活性化
業種業界を超えたマーケティング・プランナーとして活動。マーケティング関連の著書多数。
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